か行

「カーニバル性」
「みんな」で何かに取り組み楽しんだりする物事の性質。
いじめや炎上などもカーニバル性があると思われる。

「カースト的幻想」
造語。2層以上の構造をなし、上の階層にあるものは下にあるものより優れるべき点において優れ、また下の物はそのままの性質では上の階層のものと同列とみなされないような性質の幻想の系。

「拡狭性」
造語。拡がったり狭まったりするような性質。
「価値観」
物事に対する価値の判定の総体。
固定的なものもあるが流動的なものもある。

「空引用」
造語。実際には記録されていない言表を実在の人物がいった事のように表現する手法……手法?
貧困とは、贅沢の結果であるbyウィリアムシェイクスピア……など。
話者の権力へのアイロニーでもある。
「頑健にして強固、不動にして絶対!」
主に物事の頑丈さを主張したい時に使う。
筆者が遊戯王の守備系モンスターの口上を考えてるときに考案されたセンテンス。

「カオスマン」
造語。孤独なデミウルゴス。混沌として醜いものを好み、そうしたものを作り上げ、まためちゃくちゃにする。スマッシュブラザーズのクレイジーハンドはカオスマンの一種であると思われる。でも彼には相方のマスターハンドがいる。
そうして作り上げたものには法則性などがないため知性が発生するとは考えにくく、したがって友人などが居ない場合孤独な存在である。
さて、桜井氏が創造者の一面としてカオスマンであるクレイジーハンドを設定したのは結構面白い話である。(言うまでもないが桜井氏はゲームクリエイターである)
創造者は決して規則的で美しく秩序だったものを好むとは限らないのだ。
そういう意味ではカオスマンの存在はインテリジェント・デザイン論への反論でもある。根源的には反論とは言えないけれど。

「学者」
何らかの学問の知識に長け、それを研究、発表する人。科学性に殉じ、公平な立場が求められる。
しかし現実には資金難の弱い存在であり、しばしばバックボーンに企業や政府などが付きまとう。
イスラエルの考古学的発見にはシオニズムを正当化するものしか許されないとか、タバコの無害性を主張することなどはその典型である。

実験と発見の考察などにおいても、自分の学説、願望に都合のいいような解釈、説明が見られ、学者というだけでその言論を信じていいのかは疑問がある。


「神」
一般にはユダヤ系統の一神教と多神教の神は区別される、が、この項では統合することを試みる。
何らかの権力的な存在。しばしば知性(を持つとされる)および被信仰性を持つ。被信仰性を持たないものは、悪神などと呼ばれることが多い。
多くの場合において、普通の人間には実現できないような能力を持つとされる(それが実行されるかはさておき)。
その起源は「先祖崇拝(先祖供養)」や「自然畏怖」などとされる。「英雄信仰」はおそらくそのちょっと後である。
キリスト教のような最強厨が考えたような絶対的な権力を持つものもいれば、汎神論における神……米粒の神とか。のようにいてもいなくてもどうでもいい存在も神と呼ばれる。
多神論では、「何かを司る」もしくは「何らかの属性において特権的地位を持つ」場合が多く、そういった場合その「何か」に接続詞「の」を付けて呼称されることもある。「空の神」など。
さっき悪し様にいった米粒の神もお米をおいしくしたりしてくれているのかもしれない。感謝の念に堪えない。
「多元論的」な観点から、神は物質に基づいていないと考える場合が多い。もし、物質に基づかず、(その意思に基づき)何かを司る、支配する存在……として神を定義するのであれば、
そういう意味では、(古典的定義の)人間(の精神)は己自身の神であるという命題は、この条件を満たすように思われる。でも自由意志があるかどうかは不明。そもそも人間なる実態が云々……といった議論はそれぞれの項に任せる。
しかし例えば日本では現人神なる人間の神の信仰も存在し、これを「神」の定義の射程に含めると、さらにその定義は拡大せざるを得ない。

どんな低級とされる神でも、所有の対象にはならない。
「頑張れ」
鬱病への禁止ワードとされる。英語圏で鬱病の人に「fight!」といった場合どのような結果になるのかはよくわからない。
もっと努力しろ、みたいな意……たしかに命令形ではあるのだが、「言語のすり減り」によりあまりそうした意味は持っていない。「気をしっかりもって」みたいな意味合いが大きいと思われる。
「頑張れ」と言われて「俺の努力は少ないというのか!」という人は、鬱病というよりアスペルガー症候群のような言語障害あるいはコミュニケーション障害だと思われる。
でもこれを鬱病の人に言うとキレる。彼らの多くは鬱病は脳の障害であると主張するにも関わらず、そうした言語障害やコミュニケーション障害に対して差別的な観念を持っている。
まあ障害といっても局所的なもので、この「頑張れ」が議論のやり玉にあげられるのは原義と実際に使われる意味合いの乖離によるものだと思われる。
エクリチュール交信文化によって、こうした「言語の意味」についてたびたび見直されるような事態が起きている。文学的には良いことかもしれない。

「記憶」
過去に経験したとされる物事の心象への表象、またはその貯蓄を言う。
ラッセルの世界五分間前仮説などはよく誤解されるが、本来は科学哲学の場でこの記憶に対する議論で用いられる思考実験である。
それらしいことを書いているが上記の文章は筆者の朧げな記憶に基づくものである。ほかの項目で事実のように書かれている文章もそんなものなので注意せよ。

「キチガイ」
社会的価値観からは逸脱した考えを持つ人。またそんな行動をする人。


「喫煙厨」
自己中心的な考えに基づいて喫煙する人。
彼らの多くは「喫煙は健康に害はない!」「副流煙に害はない!」などと主張するが、WHOの発表を否定するにはそれなりの論拠が必要だと思われる。
彼らの顔に突然息を吹きかけたりしても別に構わないと思われる。
それは健康に害のないことなのであるから。
多くの人間に批判されているにも関わらず、喫煙厨である人間は多い。恐ろしい中毒である。

「傷と穴」
強迫性障害の症状、抑圧と排除の差異を説明するのに便利な概念である。
傷は皮膚に包まれた(赤というイメージで想起される)組織を暴露する現象である。が、その組織はもともとそこにあったものであり、皮膚はそれを覆い隠していたにすぎない。つまりは抑圧である。
しかし「穴」は違う。ここで言う穴とは底なしの穴である。現実界である。底なしの穴を穿たれた(それに気づいた)主体は、穴の向こうの恐怖の権力にさらされることになる。
その穴はそこにあるはずのないもの(=排除されたもの)の侵入口となり、事実そこからはアブジェが噴き出す。入ってくる。
この穴は根源的に解決不可能なものであり、主体はこの穴によって強い不安を抱き、穴からの攻撃にさらされることになる。それが強迫性障害における症状である。
そしてこの不安及び攻撃を減退させるために特定の行動を行うのが強迫行動と呼ばれる行動である。

ここに強迫性障害が完璧主義者だと言われることの誤解性を説明することができる。強迫性障害は傷については何とも思わない。少なくとも強迫性障害における症状は示さない。ささいな瑕疵に多大な注意を払う強迫性障害者というモデルは誤りだという事ができる。
しかし穴を認識するとその行動は重度な症状を示していく。穴を埋めることはできない。それは底なしだからだ。だから主体は穴をふさごうとする。ふさいだものと思おうとする。しかしふさいでも穴はそこにあるので、根本的解決には至らない。

強迫性障害の穴に対する「過剰」な行動や認識は、異物や危機に対する神経反応の遺伝的形質によるものだと思われる。この形質は、動物に存在しても矛盾はないので
動物にも強迫性障害はありうる、となる。

人間は根本的に穴を穿たれた存在である。ただ人々は穴が無いようにふるまっていたり、穴を見ないことによってその正常性を保っている。ようするに思考停止してる馬鹿なんだよお前らは。

精神科や精神分析の治療は、穴への認知のルートを防ぎはするけれども、穴そのものを埋め立てることはできない。神経症は治癒はすれど根絶はできないのである。
なぜ精神分析がほかの精神医療体系における治癒を仮初のものだと言っているのかは、実は理解できない。精神分析においても症状の源泉である穴は、どうしようもないものとして定義されているのだから。
ただ精神分析は、射精のように穴から噴き出したアブジェを受け入れろというだけである。うん、受け入れた。で、穴はどうするの?

分裂病的主体では、この穴から出てくるアブジェは射精ではなく連続性を持っている。つまりは川である。まぁなけなしの遮蔽物はある模様である。それがどのように機能しているかは、分裂病的主体でないとわからないだろう。

「逆説厨」
造語。逆説は常識を切って見せ、ある命題を作って見せる。それは主体に外傷的現実感を与える。
しかし命題は命題であり、すべての命題は誤謬である。よってこうしてできた逆説なる命題も幻想にすぎない。
しかし外傷的現実感により逆説が真理であるかのような錯覚を覚える。バイアスである。そうして逆説に魅了され、逆説的な体系を信奉する人間たちを逆説厨と呼ぶ。

「強迫性障害」
旧的には強迫神経症と言われる。この項では強迫行為による除去の対象となるもの、及び強迫観念を「穢れ」と呼ぶ。
初期フロイトにおいては幼児期の厳しい父親による強い超自我の形成が
原因とされている。ラカニアンのジジェクにおいても、強迫神経症者は熱心な活動によって<他者>の要求を満足させようとする労働である。
と書かれている。

筆者は、強迫性障害は(個人としての)外傷、穢れに対する対応の過剰化であり、超自我などの「他者」は関係は薄いという見解を持っている。

その症状は多岐にわたり、強迫性障害とされる症状を一元論的に説明するのは難しい。
遺伝的形質が関わっていることは、たしかなことだと思われる。


自分に対して抑圧的な人間とされることもあるが、自分の症状が関わることになるとブチギレたりするらしいので、この定義には疑問がある。




単に「汚れ」が嫌いなわけではなく、あるサイトが引用しているある強迫性障害の実業家の記録によれば
汚い部屋で風呂にも入らずベッドでずっと寝たきりになるなど
自分からでる「垢」などは強迫的対象にならないという報告もある。
「穢れ」の性質には「外部性」が関わることが示唆されている。

強迫行動は自分のストレスを減退させるためのメソッドである。

それこそ石橋を叩いても渡らない強迫性障害者であるが、背後には「賭け」の「リスクの極大性」が関わっていると思われる。
選択とは一種の賭けである。
例えば「家の施錠に対する強迫行動」では家の鍵をかけ忘れていると、財産のすべてを失うかもしれない。
強迫観念を放置していると、自分の精神を永遠に支配してしまうかもしれない。
通常の人間は、こんなことは意識に浮かんでも気にしない。それは微々たる可能性だからである。
【引用】
<現実界>への応答のほとんどの人の典型的態度は、たとえば「生態危機」というリアルに対してであれば、《「(事態はきわめて深刻であり、自分たちの生存そのものがかかっているのだということを)よく知っているが、それでも……(心からそれを信じているわけではない。それを私の象徴的宇宙に組み込む心構えはできていない。だから私は、生態危機が私の日常生活に永続的な影響を及ぼさないかのように振る舞いつづけるつもりだ)」という有名な否認そのままである》【引用終わり】
この引用に書かれていることが、「通常の」「健康な」人間の対応である。つまるところ、リスクの極大性を否認し、抑圧しているわけである。

しかしもしそれが起こってしまうと、といったことを強迫性障害の人間は考えている。極大なリスクを防ぐためには、あるいはそのリスクを犯すことを自分に納得させるには、それなりの労働が必要である。その労働が強迫行動である。

wikipediaでは、強迫性格(なる概念)及び強迫行動は、万能的な自己像を持つ、および自己の完全性を維持するために用いられるとの見解が見られるが、
いやはや、無駄で性急な浅い判断ご苦労様、と言った感じである。まず強迫的な性格が強迫性障害に関連するといったような言説は、否定されている。
強迫性障害の人間の精神はすでにズタボロであり、その行動は維持というよりは、修復に近いものである。むしろ穴だらけになった自分への外部の侵入を必死に防いでいるといったほうが近い。自己の完全性にこだわるといえば、筆者はパラノイアを想起するが、パラノイアにそうした穴はない。これが強迫性障害とパラノイアの違いであると言える。
重度、多様化した症状により例え修復が不可能なように思えても、破滅的な精神的状況を回避するために不断の努力をしている。
また、自己否定も強迫性障害の人間の言説には見取される。よって以上のような見解は、誤りだと言わざるを得ない。
同じくwikipediaの記事では、「人生における曖昧性を拒絶し、予測可能な世界を構築する空想的万能感を抱いている」なるアホみたいな言説が記載されているが、
強迫性障害は自分の症状以外のものには無関心であることが多く、人生における不確実性、予測不能性、曖昧性に対する防衛という広汎な労働を行うことは少ない。
こんなのが精神病理学者を名乗っていられるのだから、お笑いである。
こうした「根拠の無い的外れな心理的解釈」は解釈するものの「投影」である場合が多い。
万能感に浸っていたり完全性にこだわっているのはお前らなんだよ、わかるか?馬鹿ども。


上記において、強迫的な性格と強迫性障害の関連は否定されている。と書いたが、
遺伝的形質による動物的性質(注意深い、外傷に対して敏感)などはあると思われそれが「性格」と誤認されることはありうる。

いくらかの、あるいは多くの、精神分析厨や心理学者は、強迫的症状は、「穢れ」への「防衛」と考えている。
しかし、強迫性障害者にとっては、強迫的症状は、今まさに自分の精神に立ち現れた「穢れ」との戦いであり、それを「排除、あるいはせめて弱体化しようとする試み」である。
この差異は重大であると思われる。

なぜ注意が向いてしまうのかといえば、対処しようとするからである。
どんな「穢れ」も見逃すまいという態度が、穢れが意識において大きなポジションを占める原因となっている。

「復讐」「やられたらやり返す」などは強迫性障害的症状の一種と思われる。

「ギネッジョジョジョヴァジョジュ」
謎の存在。存在と呼んでいいのかすら不明。最後のジュはビュであったような気もする。
「ギネッジョジョジョヴァジョジュの領域」
ギネッジョジョジョヴァジョジュの支配、あるいはそれが充満しているような領域を示すと思われる。
「規範言語」
造語。文法だけでなく、ある対象にある名詞などを対応させる規範的な考えなどをさす。
「規範文法」
規範的な文法。国語において教えられる奴。日常におけるコミュニケーションなども言わば規範文法の訓練である。
「気分」
気象のように変化する精神の状態。ただし抑うつ状態の場合はあまり変化が見られないことが多い。
「疑問」
知的活動の一種。知的活動の一種にして自らの知性を崩壊させかねない性質を持つ。
疑問を持つことはいいことだが、(経験上)疑問は記憶の妨害をまねくため、何かを覚えるときには疑問を抱かないほうが賢明である。
しかし疑問の対象に対して徹底的に考えることで記憶することもできる。その場合の労力は多大だがプライスレスである。しかしやりすぎると知恵熱やひどいときには発狂を招く。
記憶を目的とするなら1+1=2であるとはなんだろう?ひょっとしてそれは多数派の同意によってでしか成立しないものではないだろうか?1+1=2であることを証明するにはどうすればいいだろう……?などと考えてはいけない。それは底なし沼である。
「斬る」
物質乃至その他の現象を鋭い刃物などで分かつことを試みることを言う。
「客観性」
誰もがそうだと納得できるような論証の性質。これは現実であることとは一致しない。「客」という言葉が使われていることからも明らかなように、あくまで人間の主観の話である。
また所謂「キチガイ」「統合失調症」なども「誰もが」の意味に含めるのであれば、客観性を得ることは困難を極める。
自分で自分を客観的だという人間はあまり賛同されない。皮肉なことである。そういった人間はしばしばパラノイアであることが多い。
論理的厳密性に基づいていても、客観性を得られることは少ない。大昔に量子力学を一から説明して主張しても「はぁ?」で済まされるだろう。
そういった意味で客観性というのは共同体に依存したものであると言える。
「恐怖の権力」
ジュリア・クリステヴァの著作。社会学にありがちな権力の恐怖性ではなく、アブジェが人間に対して行う強制力を言う。
しかしアブジェに権力を振るおうという意志があるわけではない。アブジェはただアブジェらしく振舞うだけである。権力という表現は、人間側から見た判定に過ぎない。
「教師」
クラスという纏まりにおいて特権的地位を持った存在。「校長」や「教頭」、「PTA」などには権力で劣る。

近年教師の児童への暴力が議論になっているが、主に古い世代は暴力肯定派、若い世代は暴力否定派と大雑把にいえば分布に差がある。

さて、教師と言っても、その実態は(公立学校においては)公務員である。定義的には学業を教える存在であり、児童に対して道徳的な価値観を押し付けるような存在ではない。なので道徳の授業なるものについても反対である。
自分の言う通りにならないからと言って、暴力を振るうことは、まるで児童が自らの所有物であるかのような錯覚を抱いていると思われる。
これはまごうことなく公務員による児童への暴力であり、本来は刑事事件に発展するものである。
公立においては、と注釈を入れたが、私立の学校の場合でも保護者から多額の金を受け取って「仕事」として教師を行っている人間が、児童への暴力行為を行うことなどは、公立と同じく、驕りも甚だしいと思われる。
そもそも肯定派は暴力の有効性を声高に主張するが、暴力という行為が教育に効果的かどうかも疑問があり、正直にいって願望の域を出ない。
例えば言うことを聞かない人間には暴力を行ってもいいという観念が植えつけられ、子供への虐待などに発展する可能性もある。
正直に自分の思い通りにならないから切れてどなったり殴ったりしてるだけと言えと言いたい。
こうした教師の傲慢さは、スタンフォード監獄実験などで示された、「役割による性格、価値観の変異」によるものと思われる。こうしたことは「上司と部下」の関係に似る。
(つーか日教組みたいな怪しい思想団体が日本の教育の現場に絡んでいる以上その教育の是非については大いに議論が必要であると思われる)

塾の講師などは、そのお金の受け取り方によって自分たちが「仕事」として授業をしているという自覚があるのか、暴力事件に発展するケースは少ない。
でも耳にしたりはする、残念なことである。

教師と児童は他人に過ぎない。その距離感を間違えることはあってはならないことである。

「競争(社会学、経済学)」
資本主義社会において現代の格差を正当化する目的で使われる場合が多い。
しかしその実態は、(多くは競争社会が始まる前の)既得権益層がめちゃくちゃ有利なスタートダッシュを決めているにも関わらず「これ競争だから!自由で公平で正当な競争だから!」と主張していることが多いと思われる。
後発の人間に対してトラップを仕掛けたりなどの妨害や、有利な人間同士での連携、後発の人間同士での争いの誘発……など、「自由で公平で正当な」競争が行われているかは疑問がある。
そもそもそういう競争の実現のためには(不可能であることを自覚していうならば)全員が同じ地点からスタートせねばならず、そのためには社会がいったん崩壊する以外道はないと思われる。

「狭識」
造語。狭い認識のこと。
「狭窄性無省認知」
造語。狭窄で無反省な認知の事。
この認知を持った人間の事を「馬鹿」と言いたくなるが公平を規す為とついでに正確性のためこのような表記にしている。
その性質上この認識をもった人間の思想や価値観などは固定的で、反するものに対して非常に攻撃的な行動に出ることなどが多い。

「恐怖の信仰」
造語。信仰とは存在を信じ、尊ぶことを指すが、「蠅の王」などの存在のような純粋な恐怖となる宗教的な対象で、さらに人間に強制力を持つものはどう表現すればいいのだろうか?
「畏怖」という概念が近いが、畏怖には畏まるという意味も含有されているため、正確な表現とは言えない。

「クオリティ」
創作物の出来栄え。コンセプトへの従属度、完成度などから評価される。
この辞典のクオリティは低い。
「ググる」
インターネットを介して調べたい物事を検索すること。グーグルを使わなくてもググると呼ぶことが多い。
知識についてきちんと記憶しなくても、いざ必要となったときはググればよい。そう考えるとインターネットは人間の補助脳と考えることもできる。
「クシナダヒメ」
スサノオの妻。
筆者の見解ではクシは稲穂が田園に並ぶさまを現すとされる。日本書紀では奇稲田姫と表記するのもそれを裏付ける。
ヤマタノオロチが川の水害の化身であったとすれば、まさに氾濫した川に飲み込まれる田園であったことだろう。
スサノオの頭に刺さったのはスサノオによる自己開拓であるととらえることもできる。スサノオの項を参照。
「国」
国民や国土や文化など様々なものを指す言葉であるが、ニュースなどでは政府を指すことが多い。
政府が国そのものと思っている人もいるとかいないとからしい。

「見取」
造語。けんしゅ。見て取ることの熟語化。
見て取るということには主体的意味合いが見取されるが、熟語化することにより、受動的な意味合いでも圧縮されて使うことができるようになった。
見て取ってしまうとか、見て取らされてしまうとか、そんな意味も内包されている。

「ゲラダヒヒ」
高度5000m近いエチオピア高原に生息する猿。霊長類の中で唯一草が主食。
「権力」
パワー。とくに他の物への強制力を持つものを言う。現代においては社会的に保証され、人間によって行使されるものが多い。
そういう意味ではニーチェのいう「権力の相克」の権力や、クリステヴァの「恐怖の権力」の権力とは違う。
「現実」
現代思想では幻想の対となるものとして否定神学的に用いられることが多い。
現実とは認知=幻想の向こう側の世界であり、決して語りえないものなのだ。
グノーシス主義においてプロパトールの伴侶が思考であったことを思い出そう。
「現象統合能力」
造語。狭窄性無省認知が優位な人間が同一とみなし勝ちな存在、例えばペットの犬などは日々細胞の変化や、皮膚的な汚れなど、内面的、外面的な様々な変化をしているのにも関わらず、同一のものとみなされる。これは大雑把なフォルム、の反復による幻想である。
また、「バカ」と「アホ」と呼ばれることは違うことにも関わらず、同じ「悪口を言われる」という経験の反復として処理され、別々に処理するときよりおそらく2倍のスピードで刺激に対して鈍麻になっていくと思われる。これも現象統合能力と呼ぶ。
「幻想」
社会基盤に不可欠なある種の蒙昧。
通貨などは幻想の代表的な選手である。

「語彙力」
豊富な語彙を適切に運用できる能力の事。語彙を覚えるだけではあまり意味がない。
「広辞苑」
巨大辞典。鈍器や重しとして使用することもできる。そう考えるとあの値段も納得である。
作家などが箔付けのために読破した本としてあげる本ランキングではかなりの順位に位置すると思われる。
本当に読破しているかどうかは不明。読破することで得られるものとその労働が釣り合っているかどうかも不明。
「構造主義」
体系に構造なるものを想定して分析する学問。
文学理論の「起承転結論」や「序破急論」なども構造主義の一例であると言える。俗な面ではすべての話には「ヤマやオチ」があるというのも構造主義と思われる。
こうしたものが「あるのが当たり前」と考えている人は、構造主義者の才能があると思われる。行ってこい、そして帰ってくるな。
レヴィ・ストロースの音楽評論で、「なんちゃらかんちゃらが存在するというユートピア的な幻想に浸っている」という発言があったが、これをロラン・バルトは「前期のレヴィ・ストロースは構造というものの分析を重視しているにも関わらず、後年ではまるで構造が実体としてあるかのような思想を抱いてそれを押し付けている」……みたいな批判をした。うろ覚えである。っていうか全ての体系に構造が存在するという考えがユートピア的幻想だろボケジジイ。

構造主義者は全ての(あるいはほとんどの)体系に自らの信奉する構造が存在すると考えているため、やたら体系にその妄想をこじつけがましく擦り付けてくる。(シニフィアンの網性)
そしてなんとかそれから逃れたものは、「それは物語ではない」とか、「それは音楽ではない」などといって特定の領域から排除するわけである。クズである。


筆者はこの手の思想を毛嫌いしている。とはいえ、筆者の信奉する体系学も構造主義であるという誹りは免れ得ない。構造という実体を想定したものではないため、構造主義ではなく分類学であると主張するが。

フーコーは自らが構造主義者と言われるのに対して構造主義ではないといったことを主張していた。
これはそうしたレッテルを貼ったものが構造主義という構造をフーコーの思想に見出していたアイロニーかもしれない。
実際に構造主義だったかどうだったかは意見が分かれる。
「皇族」
日本における王族。卑弥呼&color(#000000){}との関連性もうわさされるが定かではない。
その歴史は長いものの、戦国時代などの所謂武士の時代では空気だったり、現代でも退位が好きにできなかったりするなど、政治的実権は薄い時期もある。
皇族は所謂右翼の人間から建前では崇拝されているが、余計なことを言ったりするとたちまち叩かれる。あまり自由に行動もできないので、王族と言えど幸福かどうかは疑問がある。

「攻撃者への同一化の機制」
自我心理学の概念。
自分が攻撃されるのは嫌だから攻撃者と一緒になっちゃおうという機制であると思われる。
精神分析的な精神の原初の段階においてまなざしなどの人間が幼児に与えるリビドーは暴力である。
この暴力に耐えかねて幼児は主体化への道を進むのかもしれない。
その場合これは単なる自我の機制ではないということになる。
乱暴なものいいの人たちに組する人間たちの無意識には自分が攻撃されたくないという思いがあるのかもしれない。

「肯証」
造語。ある体系を肯定するような論証、事物、現象のこと。
オカルトと言われるような体系には肯証の工廠を持っている場合が多い。

「合理性」
ある目的の実現において効率的に行われるような物事の性質。
ゲーム理論などでは特に重視される概念であり、人は合理性の生き物だということができる。
しかし時には非合理的な行動をとる人間も多いと言われている。例えば健康を害するにも関わらず「タバコを吸う」なども合理的でないと言われることがある。
しかしそれは快楽を得るという目的から考えればタバコを吸うことは労働を要さず非常に手軽な手段であり、そういう見方をすれば合理的である。
タバコを吸うことは非合理的だというのはあくまで健康、経済的面を目的にした合理性から見た判断であり、視野が狭いと言える。
そういう意味では非合理性と呼ばれているものの実態は合理性と合理性がぶつかった結果、ある一面から見れば合理的ではないという事に過ぎないのではないかと言えることもある。
「コカコーラ」
神のもたらした飲み物。
「コカコーラ社」
現代の飲料水業界における神。その証拠に多くの人々に幸福を与え、飲料水業界を支配している。
「孤独」
自分と近似した性質を持つものがそばにいない、もしくは存在しないと認識されること。またそれによって生まれる感情。
孤独を癒す存在にはしばしば知性、人間性、あるいはせめて生命が要求される。
その辺の石とかで孤独を癒せる人間は少ない。

「個人完結解決主義」
造語。要するに嫌なことがあれば自分を変えてみろみたいな思想。
精神分析などが該当する。
過激派にはお前が死ねばすべては解決するみたいなものも存在する。
「コピー」
物事を複写すること。ジャック・デリダによれば人間の知的活動は全てコピーに基づく。
しかしそのコピーの失敗(コピーエラー)、あるいはコピーのコラージュから新たなものが生まれる。
生物の進化史などはコピーエラーの変遷の代表的なものである。そういう意味では生物とはDNAの文化、芸術と言える。
「誤謬」
論証が間違っていること。しかしすべての言明は根源的に誤謬である。誤謬がびゅーびゅー吹き荒れているのが言語活動の実態である。
この時点では単に早まった判断として使われる。

「コンプレックス」
心理学の概念。元は複合的な感情の意。
でも日本では主に「劣等感」「執着」などの意味で使われることが多い。
劣等感は、競争によってでしか生じない。しかし頭の悪いパラノイアは「ボクチンが競争しているんだからほかの人間も競争していないとおかしい!」という妄執を抱いているため、しばしば他人を「〇〇コンプレックス」呼ばわりしたりする。
そうした人間はそもそも競争に参加しようと思っていない人間からは「ああこいつは競争が実在すると信じている馬鹿なんだな」と思われることになる。
血液型性格診断などと同じく、日本の素朴心理学における特色であると言える。

  • 最終更新:2017-03-31 05:42:50

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