さ行

「才能」
物事に取り組むの遺伝的適応能力。
しかしサッカーの才能、野球の才能などといった、特定のカテゴリーに対応する完全な才能などはなく、実態は、筋肉に対する神経系の伝達が速いとか、空間把握能力であるとか、そういう細かな部分の総体が、サッカーの才能などと呼ばれているものの実情である。
人間の行う行為では、実に様々な小さな能力が集合的、総合的に働いて、結果が為される。
細分化された能力に着目すれば、才能がないと言われるような人物であっても、突出した部分を発見することは難しくないだろう。
そう考えると才能がないと悩む人間が行うべきは自らの突出した能力の発見である。むろん、その才能に従属するかどうかは本人の意思で決めてよい。

「さっきまでの経験の残滓」
造語。動物園の映像を見た後、しましまのものがシマウマの模様に見えてしまうとか、
ひざって10回言った後ひじを指さされてここは?と聞かれた時にひざって言ってしまう現象とかが値する。
言い間違いなどにおいて、精神分析家などが主張する「構造的」無意識の干渉が絶対的に優先されるものではないということを示唆する。
「殺意」
殺したいと思う心。
憎い相手をこの手で殺す快感もなくはないが、殺意の発生にはストレスの原因を排除したいという部分が大きく、相手が自分の関係ないところで事故死しても別に構わないと思われる。
たまにシリアルキラーのような殺人という行為自体に喜びを持つものもいる。
「殺害されたモノ」
(主に)言語化される以前のモノ。
しかし時としてモノは回帰することがある。そういう意味では殺害には失敗しており、モノは不死であると言える。

「左翼」
柔らかめにいえば革新派。
インテリ、それも学生などに多いとされる。
学生に多いのは、まだ社会に対する従属が十分でなく、若いパワーを存分に振るいたいという部分が強いと思われる。また、学びたての社会、社会構造の知識に影響を受けているのも原因とみられる。それも大学生に多いのは、抑圧者としてふるまった教師という存在から、単に知識を教える存在となった教授への転換が大きいと思われる。教授が左翼であるという事も少なくない。
(基本的に)知識が広ければ広いほど、自らの所属する社会の価値観などは相対化されていくので、社会の価値観によるインテリへの強制力は薄れていく。
また、インテリは周りより自分のほうが頭脳に優れると思っているので、旧来の価値観を否定する傾向が強くなるものだと思われる。

本来は労働者に適するとされる左翼だが、日本の労働者はそれほど元気がないのか、あまり活動をしていない。


「参考文献」
主に作品の箔付けなどに表記される参考にした文献。多ければ多いほど権威づけには役立つとされる(多すぎるとほんとに読んでるのか?という疑問を持たれることもある)
こうした辞典などでは(事実であるような項目を書く場合は特に)文献を参考にすることを要求される(正確には文献を参考にしながら書くことを要求される)
が、この辞典の項目ではほとんど筆者の朧げな記憶と知識に基づく。

「自由意志」
その語義は混乱を極める。なので「これこれこういう理由で自由意志は存在する」なる説明については注意したほうがよい。それはあなたの思っている自由意志とは違う可能性がある。
しばしば人間がなぜ自分のことを自由意志に基づいて行動していると考えるのか?なる議論が散見されるが、通常人間はなんとなくで行動し、なんとなくで行動しなかったりしているように思われる。
朝、コーヒーを飲むとき、「よし、俺は今からコーヒーを飲むと決意した。この決意は因果的関係から自由だ!」などとしょっちゅう考えている人間はいない。居たとしたら大変だなあと思うばかりである。
ただ、少し神経質な人間、というより自由意志というものについて考える人間が、今の俺の行動は自由意志に基づいているものだろうか?などと意識しているにすぎない。
こうした考えすぎによる蒙昧は、自由意志存在論者の「自由意志が存在するような感覚」を根拠にして自由意志が実在するという主張につながる。

リベットの実験がある。いろいろはしょって実験結果のリベットの解釈を述べるのであれば、人間が行動することを意識する前に脳内で行動の決定は行われており、行動することを意識するのはその後であるという報告である。つまりは、人間が意識的に行動を決定しているのではなく、脳が先んじて勝手に決定しているということである。
しかしリベットはそうした意思決定を拒否できるとした。これが人間に与えられた自由だと。しかしこの省察は曖昧であり、信頼には値しない。

また関連する実験では、人間の脳の特定の半球に電磁波を与えることで、人間の行動決定に影響を及ぼし、そのことに対する自覚をテストした。
しかし、実験結果では明らかに電磁波の影響による行動が認められているにも関わらず、被験者は自分の意志に基づいて行動していると思っていた。


実をいうと自由意志論者は、自由意志に対して厳密な定義を持っていない。無意識的にぼかしている。
それは自分を決定論的絶望から救ってくれるような何かであり、厳密に定義してしまうと、それは自分が望んでいたものと違ってしまう可能性がある。決定論的絶望から逃れても、自由意志の性質如何によっては、主体に新たな絶望を差し迫る。なので自由意志論者は、決定論的世界観を否定しつつも、自由意志の正体については先送りしている。
神が否定神学的存在であらねばならない理由がよくわかるだろう。

自由意志論者はありもしない自由意志を信じたり、せめてその実在を相対化に留めようとしたりと必死である。滑稽極まりない。


「死」
生命活動の停止。しかし「脳死」と呼ばれる状態に至っても体のどこかの部分は(まがりなりにも)活動していることが多いため、どういった状態が死亡のラインとするかは議論がある。というよりシニフィアン認識論的な価値観からすれば、死という概念はもともと人間が恣意的に作った曖昧な概念であり、そのラインを厳密に引くことも結局はライナー(ラインを引くものの意、造語)の恣意的な判断によるもので、もともとあると言えそうなものは個体とされるものの物質の変化だけなのである。その物質の変化による脳の活動の喪失が医療の技術的な不可逆性を持った時、死と呼ばれることが多い。
まさに死について議論すべきはその正体でなく「死体」の処理の関係上どこを死と定義すればいいかというのが医療、法律の現場の実情である。

「幸せ」
自分を幸せだと思えること。しかし思い込もうとしてもうまくいかないことも多い。自分を幸せだと思い込むためのある種の蓋然性が要求される。
そのため論理学に携わる人間や言語の定義について深く考えがちな人間は不幸せなことが多い。思考放棄するのが幸せということである。
「自己愛」
自分を愛すること。また自分の創作物を愛すること。愛するというにはあまり届かない好ましいといった感情も含められることがある。
しかし後者には異論もある。「受動的主体」にとって、創作物は「自分が生み出した」というより、「自分の脳や体を使ってなんかでてきた」みたいな印象が強いのである。
よって、(おそらくは自由意志論者の)創作物を自らの分身であり、それに対する愛は自己愛であるという考えには、疑問を呈せざるを得ない。

「嫉妬は憎悪に先立つ」
造語。一部の心理学者(素朴心理学含む)の考え。いくらかの憎悪(および嫌悪)の対象は実は嫉妬が原因であると言う説。
しかし大富豪であるビル・ゲイツはあまり憎悪の対象になっていない。羨ましいというレスをたまに見る程度である。
しかしジャスティン・ビーバーは多大なる憎悪を受けている。この違いの原因について、嫉妬は憎悪に先立つとする論者は、説明すべきであると思われる。
「自己分析(精神分析)」
自由連想によって自分の本質を探ること。
迂回や退行、休息、拒絶などをしたりしつつも、自由連想を根気よく続けていけば分析の終わり、終着駅に到達することができると考えられている。そこが対象aである。
自由連想は「患者」にとって対象aの発見の理想的な方法とされる。その対象aとの出会いは、おぞましさやつまらなさを感じることはなく、神秘的で感動的な出会いとなる。幸せの青い鳥である。これが精神分析における治療……より正確には治癒となる。
しかしなぜそこで分析が終わってしまうのかは、よくわからない。全ての事は可疑的である。対象aからの連想も不可能ではないと思われる。でも精神分析はそこでスパッと自己分析は終わると考えている。
いったいなぜ?もしそこで分析が終わってしまうとしても、それを退行や蒙昧などと捉えて終着駅をあくまで対象aであるとすれば精神分析の大筋とは矛盾しないのでは?

分析が病だと知ってるからだろ。終わりなき分析が「狂気への執着」だと欺瞞的に思っているからだろ。

分析に終わりがあるということがそもそも欺瞞だろ、ボケが。
「処女厨」
女性に処女性を求め、その観点から非処女を悪し様に言う人。また女性に過度な貞潔さを求める人。
管見では、ネット上では「かんなぎ事件」のあたりから爆発的に広まったように思われる。
同作のヒロインが過去に男性キャラと何らかの関係を持っている描写からヒロインが非処女ではないかという議論が巻き起こったのであるが、
作中には性交渉があったとする描写はない。さらにも言えば恋愛関係であったとする描写もない。ただ男キャラと何らかの関係を持っていた、それだけのことであった。
しかしアニメも放送中であったためか、この炎上騒動は大きく広まった。作者がこの騒動の後入院しているが、一説にはこの騒動のせいで作者が入院したという考えまである。
また所謂「暴力ヒロイン叩き」の発生と同期しているという見方もある。(誰によって?)
筆者が所謂「暴力ヒロイン叩き」を目にしたのは「ベン・トー」の「白梅梅」についてであった。
この項は「女叩き」との関連も深い。

精神分析的解釈。
男性にとって処女膜(的存在)の不在(所有痕と呼んでもいい)は、欲望の対象である女性に、すでに男性が侵入した、所有したという外傷があるということを男性に突きつける。
これはそっくり幼児期の母親のペニスの不在と同様である。母親はすでに父によって所有され、その権能は無限ではないということを主体に突きつける。
この幼児期の母親のペニスの不在という外傷の想起を拒絶するため、男性は処女を求めるだけにとどまらず、非処女を叩くという行為に努めるのだと思われる。

「社会の発展」
「先進国」と「後進国」と言ったような、社会そのものの優劣及び成長の不可逆性を表現するような言葉が日本においては使われているが、これは誤りである。
「社会」には優劣というものはない。現在先進国と呼ばれているものは、グローバリズム、工業化、生活水準の高さ、経済的発展などが後進国とされるものより優れているだけで、社会という構造そのものは、後進国とされるものの上位互換であるといった考えは近代主義的とされる。
え、それって優れているって事じゃん。という考えを持つ人は、20世紀初頭に産まれていたほうが幸せであると思われる。
こうした歴史主義的な考えは、歴史的カタストロフィ(例えば核大戦)の概念などによって、相対化が可能であると思われる。
近代的な社会モデルの推進、科学の発展の結果、「環境」が破壊され、歴史主義者から見れば「退行」とも見れるような社会構造が誕生する。
……もし「北斗の拳」の世界が、現代社会の進歩だと言う主張をする人がいるなら、何もいう事はない。一生ありもしない夢を信じてね。
社会の構造は「環境」や「状況」に大きく影響を受けている。そのことは、数々の集団的サバイバル事件や、SFなどの思考実験によって推測が用意なものであり、つまり(歴史主義的な観点からすると)可逆的なものである。
自立的に可逆性を持つということは、その「進歩」なる概念が蒙昧であることを示しており、従って「進歩」「退行」なるものは相対的にすぎないものである。
(というより退行なる現象が存在する体系はだいたい総体的なものである)

「宗教の発展」
トーテムなどの原始的宗教とされる宗教は、いずれ一神教のようなものに発展すると考えられていたが、現在では多くの学者に否定される。
ある宗教が続くかどうかは、社会的権力との癒着や、現象を説明するにあたって万能なターム(キリスト教の神のような悪のような行為もするし悪魔を見逃すし論理なんて神の前では無力と言ったような性質を持つにも関わらず絶対善、しかもあらゆる現象は神の御業であるという権力的であいまいな定義を持ったターム)、宗教を支える共同体の軍事力、宗教体系の(しばしばアドホックな)柔軟性などに左右される。
宗教の内容の多くは、社会的状況、環境的状況にも影響を受けており、弁証法的発展などによって宗教は(絶対精神のような)一定の対象を目指して進歩し、収斂するといった考えは歴史主義的誤謬であると言える。
「主体」
哲学用語。哲学者によってその定義は異なる。
この辞典ではだいたい「個人」の意味合いに近い。

「死にたい」
苦境にたたされたものが苦しみから逃れたいと思って口にする言葉。本当に死ぬ決意があることは少ない。
死ぬのは現在の悩みから解放されるための手段であり、目的ではない。そういった性質は殺意に似る。
死ぬことそのものを目的にして死ぬ場合は少ないと思われる。

「死の欲動」
精神分析の概念。死そのものへの欲動とか、破滅的で散逸的な欲動とか、そもそもそんな大げさな概念でなく切断性への欲動とか、その語義には混乱が見られる。
快楽原則の彼岸にあるものとされる。しかし体系学的な観点からは、死の欲動は快楽原則の補填である。
快楽原則主義者であったころのフロイトは、患者を診るうち、快楽原則ではどうしても説明できない現象を発見した。しかしそれを認めてしまうと、快楽原則という人間心理の原則の仮説は崩壊しかねない。
そこで快楽原則の「例外」として、死の欲動という概念を開発した。こうすることで快楽原則は絶対的地位から降落しつつも、その崩壊を免れ、人間の基本的な心理を説明する概念として、死の欲動という概念と共存するに至った、というわけである。「例外」とはまさに基本的な仮説を保護するために発生するものであると言える。

「所有」
自分のものとしてもつこと。本来その程度の意味しかないが、支配性や管理性、その存在の把握などもよく付属する。

精神分析においては、所有は父的機能……だと思いきや、象徴的去勢以前の母子関係も互いに互いを所有する関係だとする。
前者を象徴的所有、後者を想像的所有という事ができる。
象徴的所有においては、所有には基本的に他者の承認が必要である。あらゆるものの窃盗や剽窃や略奪が日常化した世界では、所有という概念は生まれないかもしれない。
人は欲望の対象をなんとか所有しようと(その関係を他者から承認されようと乃至社会から保証されようと)試みる。結婚の披露宴などは、そうした形式の代表的なものである。
ある形式を通して所有という妄想にすぎないものを確信化するというのは広くみられるものであり、金銭を払ってものを手に入れることなどはその例だと言えるだろう。強力な暴力によって維持される現代社会の法律においてその所有という妄想が保護されることは、主体に安心を与える。
想像的所有も妄想に過ぎないことは、母子関係の失敗からも明らかであり、その後は基本的に「自分」の精神や肉体などが想像的所有の対象となる。
しかし重度の精神疾患において、そうした妄想が崩れ始めることは知られているとおりである。分裂病においてはもはや自明のことである。

ものを現実として所有することはできない。所有はただ妄想として機能する。でもパラノイアはそんなこと想いもしない。自分が所有しているというものは絶対に所有していると考える。他者のテクストですらも。


「辞典」
製作者の恣意的乃至思想的乃至個人的趣味その他に基づいて行われる言語についての言語による説明を網羅したもの。(たまに絵が付属している場合も)
高名な辞典は権力的地位にあり、その辞典の言語圏における言語活動を支配しているとさえ言っていい。
またそうした辞典は一応は厳密な調査や推敲が行われていることが多いが、趣味で作られる辞典にはあまりそうした傾向はない。この辞典などは杜撰なものである。

「シニフィアン認識論」
造語。人間の認知はシニフィアンに依存、支配されているという考え方。
「シニフィアンの洪水」
心理学的な概念。主体が防衛のためにシニフィアンを駆使し、それが恐るべきスピードで防壁として「建築」されることは精神分析厨の諸君にとって知られているとおりである。
反対にシニフィアンをコントロールするダムが決壊し、次々とシニフィアンがあふれ出すような症状も見取することができる。それは主体に快楽や安定をもたらさず、むしろ不安や破壊に近い性質を持つ。
シニフィアンもまた、パルマコンである。シニフィアンの無害性を訴える馬鹿なソシュール厨たちは肝に銘じてもらいたいものである。

「シニフィアンの拡狭性」
造語。シニフィアンが持続的に機能するためには、シニフィアンが捕獲する対象であるシニフィエが、たとえちょっと違う側面を見せても捉え続ける必要がある。
そのため、シニフィアンはシニフィエを捕獲しつつ、そうした「暴れ」に対する柔軟な対応性が要求される。それがシニフィアンの拡狭性である。
「例えばすべての鴉は黒い」と存在する人に「赤黒いと言われる鴉」を見せたとする。これはお前の命題に対する反証だと。
しかし反証に誠実でないその人は「いやそれは黒色だ」と主張する。この「黒」の定義の混乱、拡がりが、シニフィアンの拡性である。

(保守的な)体系にとってシニフィアンに要求されるのはほかのシニフィアンとの関係性であり、ぶっちゃけシニフィエとの一致の正確さ、厳密さではない。
むしろその厳密性にこだわれば、体系は壊れやすいものとなってしまう。
まさに体系の存続とはシニフィアンの関係性の存続であり、そのシニフィエとの対応関係の存続ではない。

精神分析家が精神分析における語義の混乱への言い訳に用いる「心というのは曖昧な対象であるからしょうがない」とはまさにシニフィアンの拡狭性の側面を現している。

また、シニフィアンは狭まることもできる。この2つをあわせてシニフィアンの拡狭性である。
「自罰パラノイア」
ラカンによって発見されたパラノイアの一つの性質。
自分を父に罰してほしいという無意識的な欲望に基づいて暴走しまくることを言う。
元となった人物は刑務所にぶち込まれると沈静化したらしい。
某zeroのランスロットも自罰パラノイア……と言えるかもしれない。
大して某アイドル(?)めったざし事件の犯人は獄中でも反省していないことから自罰パラノイアではないとみられる。

「弱者」
権力を持っていない人間。
近年では弱者の連帯による強者化がすすみ、一個人と比べればかつての弱者が優位に立つケースも多く見受けられる。
そうした見地に立てば、真の弱者とは孤独な弱者である。
「ジャック・デリダ」
いわゆる電波。テロリスト的な蒙昧主義とも呼ばれる。
その思想から繰り出される行動は徹底的で、脱構築をキバにあらゆる人間に噛み付いてきた。
「ジャック・ラカン」
患者の嫁を寝とる真正のクズ医者。その患者であるバタイユからどう思われていたのかはよくわからない。
バタイユのほかにもアルトーを診ている。バタイユの勧めで行為の後痙攣する女性器なる過激で性的な絵を購入したり仲はよかったようである。
講義の最中に学生にポップコーンをぶつけられたりしている。
フロイトに帰れなどと言いつつフロイトからの転換も模索していたという指摘もある。
晩年はサントームという概念を開発したが現代の思想家からは専ら象徴界などの三界論、対象aなどがよく引用される。
使いやすいから仕方ないね。
「自由意志」
過去にキリスト教の宗教的な議論の場で発生したが、現在はもっぱら唯物論との議論のさいに用いられる。
量子力学の発見により、閉じた系でも未来は確定しないという見解が誕生したが、それでも人間の行動の基底となる「意志」なるものの存在は不在とされたままで、自由意志存在論者の理論的根拠は薄弱なままである。

フロイトは人間が自らの主人でないことを明らかにする精神分析の発見を人類史における第三の屈辱としたが、決定論の議論は無視している模様である。
「上司」
会社などにおいてある主体にとって階級が上の存在。
しかし本来上司と部下の関係とは、仕事を効率よく進めるための役割分担に過ぎず、「カースト」のような人間の価値を定めるような関係体系ではない。
日本ではこの意識が薄いのか「上司である=人間としても偉い」というような錯覚が生まれ、日々部下に対して偉そうな口をたたくケースが多いらしい。
こうした心理はスタンフォード監獄実験などとの関連も見られる。
そもそも最上級の階級である「社長」と「労働者」の関係ですら、賃金を用いた契約関係に過ぎないはずであり、本来は対等な関係なのだ。
しかしヘーゲル的な考えでは、こうした労働者たちの態度にも落ち度があるとする。
「奴隷と王」の関係では、奴隷たちが、王の命令に従ったり、王を王と呼ぶことによって王を王たらしめている。奴隷は王の主人でもあるのだ。
なので上司の理不尽な命令に従ったりしていることで、ますます上司は増長するわけである。そしてブラック企業なる労働者にとって過酷な環境が生まれる。
これには異論もある。奴隷たちは心から自分が奴隷だと思っていることは少なく、嫌々従っているのであり、やりたくて王を王たらしめているわけではない。
こうした構造の改革に必要なのは外部からの介入であり、政府などが積極的に行うことが求められる。
でも企業と政府は癒着していることが多いので残念ながら積極的になることはないと思われる。
とくに資本主義においては、政府が企業に対する介入は越権行為とされ(小さな政府)、企業の体質は企業に一任されている場合が多い。
小さな政府によって社会を実現させるには「先に」まずこうした体質、価値観を改善してからするべきだと思われるが、現在日本において与党は資本主義の自民党及び時たま民進党であり、どんどん小さな政府化が進む。んで企業は増長する。

こうした前時代的な価値観が日本の労働効率に対して少なからず影響を与えているとみられる(多分悪い影響)

「ワタミ」の事件などのように、民衆がブラック企業に対する体質改善を求めるのは、良いケースだと思われる。
インターネットによって、こうした民衆が企業に対して権力を持つことができるようになることは、「小さな政府」社会において重要なことだと思われる。

「真実の死」
多くの人間にとって、父的幻想は真実より価値を持つ。
そうした幻想は快楽を与えてくれる。安心を与えてくれる。意味を与えてくれる。
父的幻想は、母でもあるのだ。
それは作者の死とか、歴史の終焉とか、そんなもののずっとずっと前より起こっている。むしろそういったものは、真実の死の死と言えるかもしれない。

死体を見ずして偶像を作り、偶像が死んだ者の似姿であるような信仰。死んだ者が生き返ったものであるようかの信仰。自分たちのしていることに気づいていれば、まだいい。そうした人の多くは謙虚だから。
でもそれを心の底から信じ、信仰に従わないものを罰しようとする人たち。信仰に従ない他者を否定しようとする人たち。そういう人たちには
死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて
死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて
死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくて死んでほしくてしょうがない。

ユダヤ教の系譜にある宗教の、偶像崇拝を禁じようとする態度は、ある意味正しい。真実への態度として。
正しいからさ、君たちの神の観念も、こわそ?ねぇ、こわそ?君たちの信じようとしているものは、実は天邪鬼かもしれないよ?

わかりやすいので神を引き合いにだしたが、悪魔もこうした偶像の対象である。
アホどもにとっては、悪魔は偶像を描いてもよい。だからキリスト教の文化圏で、悪魔学は体系化された。なぜなら悪だから。そうしたほうが罰しやすいから。否定しやすいから。死ね。




「進化」
生物の世代間での形質の変化。それは進歩ではない。
某アニメの影響で「進化のいきつく先は自滅」とされることもあるが「?」である。よくわからない。絶滅という意味なのか?
とにもかくにも進化というのは行き当たりばったりなものである。なんらかの方向性に基づいて行われているものではない。DNAのコピーエラーにより運よく子孫を残せるか残せないかという話である。
まああくまで自然淘汰説による見解なのだが。自然淘汰説によるものでないとするとどういう文脈で自滅といったのか。よくわからない。
「深淵を覗いているとき、深淵からも覗かれているのだ」
ニーチェの言葉。何がいいたいのかはよくわからない。ラカニアンなどはまなざしという概念を用いて説明すると思われる。
「深淵を覗いているとき、深淵は覗かれているのだ」
ネットの名言。たまには知性を持たない相手の立場にたって考えることも大事である。そういう意味ではバトーが罵倒されがちな「人間扱いされる人形の気持ちは考えなかったのか」という言葉に似る。
「深淵を覗いているとき、深淵を覗いているのだ」
ネットの名言。ある時点においてある行動をするときその状態にあることを言う。

「心理学」
動物行動学の下位分類という事もできる。しかし一般に心理学(ついでに精神分析)と呼ばれる学問に携わる人々は「人間とその他の動物は違うものだ」と主張することが多い。
でも動物の延長線上で人間を捉えている心理学も存在する。進化心理学とか多分そんなん。

「推敲」
文章をその正確性や美的観点などから省みて修正したりする行為。
この辞典ではあまり行われていない。後から間違いなどに気付いてもまあいいかですまされることも多々ある。

「スキゾイド」
ゾイドが好きすぎて人間や倫理観への興味を喪失した人間。

「スキーマ(心理学)」
体制化された知識。現象を共通項によって判断する認知過程。
我々はカラスをカラスと認識する際に、わざわざdnaまで調べて判断せずとも、カラスと認識することができる。
それは黒い、羽を持つ、クチバシ、などの共通項を持って、カラスと定義しているからである。

スキーマの穴埋め機能について。カラスは眼が黒いが、そのことを知っていれば例え目が黒いことを確認せずとも、羽、体色、クチバシなどの特徴を持ってその生物をカラスとし、眼が黒いと判断することができる。これを典型的値の穴埋めという。

スキーマは認知を自動化し、スムーズに判断をすることにおいて便利な機能だが、それは誤謬である。
自動化された認知を信じることは、時として現実と大きな差異を招くことになる。

「スクミリンゴガイ」
田園の健啖家。過去にはジャンボタニシと呼ばれていた。
稲の葉をムシャムシャ食べることから米農家には嫌われている。
どの辺がリンゴなのかは不明。タマゴの塊はちっさくて赤い葡萄のようである。


「すげぇ!G.T!!」
ゴールデンオーガのAAを勘違いしたレス。
すごいとほめたたえられつつ壮大に勘違いされたAAの作者の気持ちは例え国内有数の文学者であってもわかることはできない。
「すげぇ!ガンツだ!」
サナカンのコスプレを勘違いしたblame!の担当の言葉。
すげぇ!という言葉と誤解には何らかの関連があるかもしれない。

「スサノオ」
日本神話における神。三貴神の一柱。
その描写から嵐の神などと考えられる。しかし筆者の見解では、大地(海も含めるため誤解を避けた言い方をすればこの星)の神及び大地を制する文化神と捉えられる。この見解では「荒野男」とされる。
理由はいくつかある。ひとつは三貴神の対応関係。アマテラスが太陽であり、ツクヨミが月と来ればスサノオも何らかの天体の神格化と捉えたほうがつり合いが取れる。ひいてはこの星、大地の神である。
記紀が書かれた時代において、「天体」「この星」なる概念が存在していたかどうかは疑問だが、「竹取物語」において月に人間が存在することから、少なくとも月に「大地」がある=天体である月と自分たちの住んでいる大地が同様の性質であるという認識を持っていた可能性は高い。つまり少なくともツクヨミとは対応するのである。
また、イザナギから夜喰国の統治乃至海の国の統治を命令されたさいの泣く描写、「緑の山は枯れ果て、海や川も乾いた」ということから、まさにこの星の化身たるスサノオが自らの水分を消費して涙を流したということもできる。嵐の神とするならば、スサノオの涙=雨によって海や川は荒れ狂うほど潤っていなければならないはずである。
そして高天原を追放されてからは、自らを開拓し成長していく文化神(開拓神=大地改造神)としての傾向が強くなる。
まずヤマタノオロチの神話については、クシナダヒメは稲穂を意味し、それを櫛に変えて自らに刺す様はまさに田園の開墾であり、水害の化身であるヤマタノオロチを制する様は治水を現す。
また自らの体毛を植林させる描写も日本書紀にはあり、まさしく自ら(=大地)に生えた木を様々な場所へ殖らせる大地神と開拓神の両面を持った描写と言える。

「スティーブン・ホーキング」
量子力学者。難病にかかり体のほとんどが動かないにも関わらずよくわからない執念で量子力学の先頭を突っ走ってきた。
会話などには彼のために作られた機械を用いる。スマホの予測変換システムに似た文章、音声作成システムである。
最近ではSFっぽいことにも言及し始めた。
「スマートフォン」
略してスマホ。スマフォとはあまり表記されない。
2010年代における神。誰もがスマホを信仰している。異教徒のガラケーたちの改宗が待たれる。

「精神鑑定(法律)」
責任能力なる概念を正当化させるために行われる一種の儀式。

「精神病」
いわゆるキチガイ。精神疾患とはよく区別される。
海外のいくらかの国では、犯罪を犯した精神病者は監視されるのだが、日本では精神病団体の権力が強いのか反対されているため行われない。
「精神分析」
無意識に重きを置いて人の心理を探求する学問。
神経学者だったフロイトが始めた。

精神分析の神経症者(ヒステリーも含む)における症状とは、自我と無意識の摩擦により生じると言われる。無意識の「欲」とそれを否定したい自我との戦い、これが精神と身体に大きな負担をかける……と。
精神分析の治療では、患者が自己分析の結果、この自我と無意識の摩擦をなくすことが治癒であると言われる。
精神分析では症状、無意識の主権力者たるエスは、マグマに例えられるが、このマグマは言語化(幻想化)という自我の歓待というを受け意識へのぼるや否や、冷えて固まり火成岩になるとでもいうように、無害化されるというのである。
しかしこの考え方は精神分析を信じられないものにとってリスクを伴う。すなわち、自己分析、そして抑制(筆者の経験では、人間は意識的にも無意識に精神の力動を抑え込んでいる。これを抑制と仮称する)や抑圧されている自分に有害だと思われるような精神の力動を、いったん意識に昇らせること……で
症状の悪化や、別の症状の発生がないと言い切れるだろうか?という懸念である。
精神分析に携わった人間である土居健郎なども、なぜ幻想が無害なものだと言い切れるのかと疑問をなげかけている。
……もし症状の悪化や新たな症状の発生となった場合に精神分析家は責任を取るのであろうか?アルトーに対してラカンが言ったように「狂気であることに固執している」の裏返しである「正常であることに固執している」などと言わないであろうか?
フロイトがヒステリーとする少女に書籍で書いた「私の分析を受け入れない小娘め」などといった感情を抱かないのであろうか?
またおそらく非分裂症的人間が治癒しなかったとき精神分析家が用いがちな「自己分析が不十分だった」なる言い訳をしないのであろうか?
私の狭識ではそうした精神分析の失敗の責任に対する精神分析家の言及はない。まるで自己分析をやめたり本当の自分を否認する患者が悪いといわんばかりである。

こうした、精神分析の個人完結解決主義は、しばしば精神分析家は患者と医者が一対一で、それもできれば手軽に「治癒」を目指したことに根差すと思われる。
精神分析厨たちはしばしば精神分析が「純粋な」精神に対する学問(つまり治療性は付属物)であるということがあるが、果たしてそうであろうか?
精神分析の設立者であるフロイトが神経学者であり、医者であったことは彼らの言葉を借りるなら「否認」してはならない事実である。
であるならば、フロイトが学術としてに加えて、医術体系として精神分析の樹立を図ったことは、推測として十分可能なものであると思われる。
つまり、精神分析の思想、構造、タームは医学的関心にも基づいたものであった……と。邪推しがちな私はそれを「医療的商売行為」に基づいたものである、と付け加えたくなるのであるが。
なれば精神分析の結論、前提である「神経症は個人の自己分析によって治療できる(これは根絶できるということを意味しない)」というのはまさに医学的欲望であり、凝議にされねばならないものではないだろうか?
精神科医が患者を取り巻く環境(家族、学校、会社)などに介入することは難しく、なれば患者と医者が二人でどうにか解決へと向かわざるを得ない。
そうした状況で誕生したのが自己分析という治療法なのではないかと。ついでに言うなら、これは心理学などでのカウンセリングという治療法にも言えることである。
もうひとつ邪推をしておくと、自己分析という患者に丸投げな治療法によって、患者の治癒の失敗の責任を患者に押し付けることもできる。
もし社会制度において、精神科医に社会に介入する権利が許され、患者の環境を改善することが可能になったのであれば、自己分析という治療法は生まれなかったかもしれない。
そんなわけで、精神分析の個人完結解決主義は、「精神分析の欲望」に基づいたものであると仮説することができる。


もうひとつ、精神分析について言及したいことがある。それは「否認」という考えである。
例えば、ラカンによれば非分裂症的人間、一般社会に大多数とされる人間、は、「他者の欲望を欲望するものだ」とされる。
さて、彼らが非分裂症的人間と判断する人間が「自分は他者の欲望など欲望していない!」などと言ったらどうなるか?
精神分析家はそれを否認と呼ぶ。その人間は、自分が他者の欲望を欲望しているという(精神分析では)事実を、何らかの理由で認めたくないのである。
さて、ほかの体系で似たようなことがあればどうなるだろう?例えば、物理の実験で「水が百度で沸騰しなかった」という事件が起きた時である。
これはほぼ常識で確定的とも言われているような見識(つーか水が沸騰する温度を100度と定めたんだし)への矛盾であり、最初はほとんどの科学者が思うであろう「実験に不備があり、例えば温度計に故障があった」などと……。しかし同時に、私の管見で思う真の科学者はこうも思うはずだ。「もしかしたら水が百度で沸騰しないという状況などがあるかもしれない」と。
もしこうした水が百度で沸騰しないという事態が頻発すれば、水は百度で沸騰するという科学的取り決め乃至仮説は、疑いの的となり、信用されるものではなくなる。水が沸騰するのは百度という取り決め及び理論は相転移の温度に対する理論の根幹となるもので、学問的なカタストロフィが起こる。……かもしれない。
とまあ、これが反証と反証可能性である。
こんな風に、科学とは常に反証に脅され、揺らぎ、不安定なものである。科学がまるで頑健にして強固、不動にして絶対などという信仰を持たれているのは現代の病理である。
さて、精神分析の現場において同じようなこと、さっきいったような非分裂症的人間が「私は他者の欲望など欲望していない!」などと言ったらどうなるだろうか?
おそらくは特に大事件とはならない。というより事件にすらならないであろう。患者は自分の他者の欲望への欲望を否認してあるだけであり、精神分析への反証とはならない。もしこれが世界中の精神分析での現場で起こったとしても、精神科のルール上そうした情報の共有はされにくい(そもそも否認が起きたことをわざわざ報告する必要もないとほとんどの精神分析家は考えるであろうと思われる)ので、精神分析はなんらダメージも追わず、大したことのないものとして「反証の可能性となる事象」を処分するのである。こうした大したことのないものとして処分されるのが真理の位置にある対象aであるとするのがラカンの理論であったように思われるのだが。
(最もこれには否認というシニフィアンに回収しているのだから対象aではないのではという自反論もある)
こうした行為は、次のような推測を立てることができる。つまり、「否認の判定」という行為は反証可能性からの防衛としても機能し、それはまた、精神分析による反証の「否認」なのではないかと。つまりは体系保護装置である。
これが近代科学の隆盛にも拘わらず精神分析が生き延びてきたカラクリの一つであるということができる。



こうした「精神分析という病理」に彼らの関心が向くことはほとんどない。
とまあさんざん言ってきたが、「否認」については仕方のない面もある。人間は嘘をつける生き物だ。精神分析のいう否認とは自分(ついでに他人)に対する嘘の事である。
もし人間の精神について考察する際、嘘の果たす機能について無視すれば、人間の精神の実態はつかめないかもしれないと言っていいだろう。
しかし、根拠もなく、あるいは自分勝手な根拠で相手を嘘つき呼ばわりするのは非道なことだ。「私の体系に矛盾する言動を放つあなたは嘘つきだ!」といわれれば、相手も「は?」と言わざるを得ない。
ドブを漁れ!地面に頭を擦り付けろ!相手の一言一句を玉璽のように扱え!裁判の場では何かを嘘であると立証する場合にはそのくらいの努力が必要なのだ。
自我を裁く裁判官のつもりの精神分析家や、「手紙に対する役割」で名探偵の位置に精神分析家を持ってきたがる精神分析家(君だよ福原泰平君)は重々承知してもらいたいものである。つまりは、患者の言動を嘘つき呼ばわりするのであれば、患者の言動ないしその身辺の調査から証拠となるものを持ってきてからにすべきということである。「なんか印象からするとこの患者は姉の事なんて尊敬してないんじゃないかな~」みたいなふわふわした感覚で患者の「本当の気持ち」なるものを想定すべきではない。

「精神分析家」
精神分析で治療を行う人。なんかややこしい過程を通してipaなる学会に精神分析家として認められた人たち。精神分析厨の下位分類である。
精神分析家は超人であらねばならないとされているが、いっぽうでは金銭を受け取る健全な主体であると示さなければならないという主張も見られたり、ダブスタが見取される。



「超人」になるという言葉から予測するに、ぶっちゃけ精神分析厨はほとんど人間をメタ的に見て把握しようとする全能感の快楽におぼれたカスの集まりだと言ってよい。
それが「精神分析家という病理」である。

「生物」
その定義には混乱が見られる。dnaを持つものと限定しておくと楽。
「説明」
なんらかの物事を言葉などを用いて言い表すもの。
筆者は説明をするのも聞くのも不得手である。

「選挙制度」
間接民主制の一種。公職者を国民の投票によって決める制度。
しかし民意が反映されるかどうかは多大に疑問がある。特に公約を破っても平然と見過ごされる現状において、公約はもはや国民を甘言で騙し票を得るための手段と化しており、国民と被選挙者との約束としてはまったく機能しないものとなっている。
また選挙制度のシステムによって有利になる政党と不利になる政党も存在し、多様な民意の反映という民主主義の目的を阻害している。
また、政治家に政治を一任することは政治家による政治家のための政治を防げないという事態を招く(政治家の給料の上昇など)。

また日本はほかの国と比してバカ高い供託金(アメリカなどは供託金が無い)が設定されており、必然資金に余裕のある富裕層が被選挙権を独占する事態となっている。
「善」
この世において正しいとされるもの。ものすごい大雑把な見識に立てば善の具体性については大体の個人と共同体で似たような見解を持たれることが多い。
善のイデア的実在を信じ、自らの行為の善性を信じれば、葛藤からは無縁の精神を持てるだろう。死ね。

「責任能力(法律)」
刑法上の概念。健康な主体は規範に対する応答可能性などによって、自らの行為に対して責任を取ることを求められる。それはしばしば強制を伴う。
しかし現在の科学的知見からすれば、人間に自由意志は存在しない。したがって主体は自ら望んで法律を犯したわけではなく、ただ法則的にそれを「行わされた」に過ぎないのである。
無論、この主張は刑法をただちに無へと帰するものではない。刑法もまた物理法則によって作られたものにすぎないので、わざわざ消す必要もないのである。
ただ、自然科学的見地からすれば、心神喪失などによる刑事責任の不在などという法律上の概念は、まったくもって馬鹿馬鹿しいものに過ぎない。
ジンガーなどはこのことを主張する。対してサルトルは自由意志の不在の主張は倫理規範を無化するもので退けるべきものだと主張した。

まあ、科学に法律がついていけてないということである。
自由意志の在・不在は、一度棚上げせねばならない。自由意志はあるかないかはわからない。そのうえで刑法というものを構築し直す必要が求められる。

まあ無いけどね、そんなの。

「造語」
規範言語にない言葉を新たに作り出すこと。現代では(未だに)規範言語への従属が是とされているため、造語を行う人間は少ない。
「造語ダジャレ」
禁じ手。これを認めるとなんでもありになる。元のダジャレにあった、規範言語の中での言語の偶然の出会いといった魅力は失われる。
「ソース」
①神のもたらした調味料
②情報源。
「そうなんだ」
相手の話に興味もなく、適当に会話を切り上げておきたい時に使える言葉。
そうなんだおじさんがよく用いる。
「そうなんだおじさん」
そうなんだ、と口にするおじさん。ニー速に出没する。なぜニー速に生息しているかは不明である。
「存在」
あるもの。それ以上言及すると頭がおかしくなる。

おかしくなってみよう。まず、ハイデガーにおける存在論について。
ハイデガーは「存在」の立ち現れ方は、人間の「関心」によってもたらされるものだとする。
「広辞苑」の項に書いたように、広辞苑は辞典としての機能のほかに、重しや鈍器としても使える。
人間が広辞苑について辞典として関心を持てば辞典として現れ、鈍器として関心を持てば鈍器として現れるのである。

続けて、あることとないこととはどういったことか。なぜ何かがあるのか。後者は「根源的問い」とも呼ばれる。
唯識論のように、たとえ世界のすべてが仮象であったとしても、それを認識しているなにかは存在している。
そういった意味で、あなたがこの文章を読んでいる今、その認識は存在しているのである。
なので「何物も存在しない」という事を論証するのは困難を極める。
さて、何かが存在しないとはどういうことか。例えば「神は存在しない」という命題について考えてみよう。
この時の存在の意は、「思考」「幻想」などと対置された意味での実在的意味での「存在しない」であり、幻想としては神は存在していると言える。
現在でも存在するかどうかわからない神の教えに基づき、多くの戦争が行われている。「現実」に影響力を持った「幻想」として存在するものは存在すると言える。
存在の定義に「何らかの場に影響を与え、ある一定の領域を有するもの」という定義を与えるのであれば、「幻想」として権力を振るい、「幻想」に鎮座する「幻想の神」は存在すると言える。
そういう意味では「無」ですら存在すると言える。しかしそれはいわば「概念としての無」の存在であり、「実際の無」なるものの存在を意味してくれるわけではない。
某ゲームの某ラスボスは「無の力」なるものを行使するが、デジョンなどの描写などを見るに「物事を消滅させる力の行使」を「無の力」という表現しているだけであり、「本質的」「実際的」無とは、関係がない。こうした「無」の定義に対する蒙昧の結果、「実際の無」が存在するかのような幻想を我々には与える。
「幻想の無」は「実際の無」から生まれてできたものであろうか?なれば実際の無があることで幻想の無が生まれ、曲がりなりにも現実に影響を与えているので「実際の無」は存在していると言える。
しかし体系学的に考えるに、「幻想の無」「概念としての無」は「存在することの否定」として、否定神学的に発生したものであると仮説することができる。(ほとんど確定的と言われるような言説であるが)
いわば幻想の無は有の子である。何かが無いこととして経験される事態が、転じて「無そのもの」なる概念を発明したと言える。
筆者が小学生のころに考えた「存在を超越したもの」なるものは、定義上ありえない。ものは存在のほぼ同義語なのでトートロジーの変形と言える。
「超越」する概念なるものがそもそも人間の「カースト的幻想」によるもの……とする議論は後々作る(と思われる)「超越」の項で。

  • 最終更新:2017-03-22 02:10:54

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