わ行

「我思うゆえに我あり」
デカルトの言葉。コギト命題と言われる。この我というのは肉体的実在ではなく、思考する自分は存在するといった感じの意味合いである。
悪魔の辞典では、デカルトの定義を不徹底として、コギト命題を「我思うと我思う、故に我ありと我思う」とした。
もう少し徹底すれば「思うゆえに思うあり」となる。

この命題を解体するには、「我」や「思う」の概念を解体するような思考実験をすればよい。
例えばあなたの意識は、別次元の猿が適当に操作したインターフェースによって、キーボードに対するパソコンのディスプレイのように、「思考」ではなく「表示」されているものに過ぎないのかもしれない。
でも熱心なデカルト信者は「それも我の概念の範疇だ」と主張するかもしれない。シニフィアンの網性である。

……思考には常に時間性、歴史性、因果性と言えるようなものが伴う。しかしそれらの実在を疑えば、思考、思うという行為はなく、それはただ「何か」に表示されているだけの情報となる。
情報が「意味を持つもの」だとすれば、この情報という言葉すら不適当である。デカルト的方法では「意味」の実在は疑われるのだから。それは特殊な関係で表示に付属された表示である。

「話者の権力」
造語。たしか同じ意味の言葉がすでにあったような気もするが、調べるのめんどいので造語。言表者の権力とも言われる。
話す者によって同じ言葉でも人間はちがう印象を受ける。
高学歴が「学歴は関係ない」と言うのと低学歴が「学歴は関係ない」というのとでは意味は同じであっても「もっともらしさ」は前者に感じる人が多い。
ただこれに関しては、前者がその高い知性に基づいて客観的に「学歴は関係ない」と言ったのに対して後者は「負け惜しみ」でいっているというおそらくは大体の場合においてあっている予測もあり、そうした知見から、話者の権力というのは単なる蒙昧ではないという事もできる。(ヒューステリック)
しかしそれでも、筆者は重要なのはテクストそのものであり、その話者ではないと主張する。
たとえ賢いとされるものが言おうが賢いとされないものが言おうが、考えるのは受け取った人間自身である。ぶっちゃけ言えば自分に(感動、知的発展などいろいろな目的において)役立てば誰が言おうと構わないのだ。


しかし悲しきかな、ある種の人間の感性というものはそういう判断はしない。同じ演劇でもシェイクスピアが脚本した演劇と言われれば涙を流し、無名の作者が脚本した演劇と言われれば時間を無駄にしたと憤慨する。そんなケースは多い。たぶん。そういう意味ではある種の人の感動において話者の権力は必要なものである。アホだろ、と言いたくなるけど。
こうした議論は、「無限の猿定理」とも一種の関連が見られる。

  • 最終更新:2017-03-10 00:00:32

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